2011年12月07日

夜の短編喫茶4

こう毎日書いてると、ついついクオリティが右肩下がりになりがちですよね。
やっつけ仕事にならないように気を引き締めてまいります。

●お品書き
1.スケスケ眼鏡
2.憧れの東京村
3.橋
4.ミッション・キャットライク
5.キンモクセイの魔法





*スケスケ眼鏡

「なるほど、これが例のブツか。」
友人がスケスケ眼鏡を開発した。見た目はどこにでもありそうな黒縁メガネだが、これをかけることで眼鏡の向こうの風景が透けて見えるという、最高のスケベアイテムだ。投資金は無駄にならなかったようだ。
「念のために確認しておくけど、皮膚まで透けて内臓が見えるだとか、何もかも透けて結局何も見えないとか、そういうオチは無いよな。」
「はは、まさかそんな小説や漫画のオチじゃあるまいし。ちゃんと服だけが透けるように作ったよ。具体的に言うとコットン、ウール、ポリエステル、ナイロン・・・その他、服飾素材ならだいたい透けるよ。毛皮は種類によっては透けにくいかもしれないから、そこは勘弁な。」
さすが、情熱の注ぎ方が尋常じゃない。こいつに任せたのは正解だった。近眼の俺に合わせ、度も入っているという手の込みようだ。かけてみたら、目の前には股間を手で隠した裸の友人の姿があった。

 さっそく町に出てみた。すれ違う人々が全員裸に見える。若干透けにくい素材もあるようだったが、それでも充分許容範囲だ。スタイルが良さそうに見える女性が、実は着やせしているだけだったり、冴えない顔の男が意外と立派なモノを持っていたりする。あの子はあんなところに刺青をしているぞ。皆が隠しているものが、この眼鏡によって全て筒抜けである。大きな駅のスクランブル交差点などは圧巻だ。視界に入る沢山の裸体が、右から左へ、奥から手前へ。触れあい、擦れあい、ぶつかりあう。年頃の女の子同士が別れ際にハグするところなんかは、はちきれんばかりの股間の膨らみを、さり気なく隠す必要があった。公衆の面前で自分の息子の状態を確認できるというのも、変な気分である。

 出社してみたが、やはり同僚たちは丸裸である。真面目に働いているのに、全裸。この上ないシュールさに、笑いを堪えた。あいつは確か、学生時代にラグビーをやっていたんだったな、さすがに良い体型をしている。自分のたるんだ腹回りの肉を見ながら、羨ましさにため息がこぼれる。
「あれ、課長。眼鏡新しくしたんですか。」
いつも明るく元気で真面目な美人OLも、この眼鏡の前では全てが赤裸々である。予想通りというか、期待通りというか、スタイルは抜群であった。その脇の下から腰までのラインを、両手で優しく撫でまわしたい。くびれのあたりで左手は身体の後ろにまわし、右手はそのままたわわに実った胸へ。思わずにやけてしまいそうになるが、ぐっと堪えて真面目な顔を作る。視界の端っこに、定年間近のお局さんがちらちらと見えたが、脳内で削除した。
「そろそろ会議ですけど、行きませんか。」
「ああ、構わず先に行ってくれ。書類を整理してから行くよ。」
君がそこにいたままだと、立ち上がれないのだ。

 裸だらけの満員電車に乗り、コンビニ店員と裸のやり取りをする。お隣の奥さんが裸で犬の散歩をしていた。挨拶をしたら、陽気な感じで必要以上に笑いながら、長々と世間話をされた。帰宅し、テーブルの上にコンビニ袋を置く。台所からまな板を叩くリズミカルな音。背を向ける妻を見ながら、あれは逆に、エプロンをプラスしたいなと思った。靴を脱ぎ忘れたことに気付き、急いで玄関へ戻った。どたどたと音を立てても、妻は我関せずであった。子供はいない、夫婦二人だけの食卓。妻は何も喋らない。食べる様子をじっと眺めるが、目も合わない。
「なあ。」
「・・・なに。」
「眼鏡。」
「うん。」
「・・・新しい眼鏡。」
「うん。」
興味の無さそうな相槌ばかりが返ってくる。結婚して一年、すっかり冷め切った仲。身体の芯のあたりを、冷たい風が吹き抜けた。そういえば、スーツを乾燥機に入れた時も、何ひとつ話しかけてはこなかった。夫がうっかりスーツのまま風呂に入ったというのに、冷たいやつだ。普通なら、疲れてるんじゃないの、とか心配してくれてもいいのではないか。・・・普通って何だろうか。眼鏡を外し、部屋着の妻をじっと見る。
「なあ。」
「・・・なに。」
「ごめんな。」
「なにが。」
「スーツ。」
「ああ。」
妻の箸は止まらない。眼鏡をかけて胸元を見る。凝視する。ふわふわの乳房を脳内でこねくりまわす。脳内の妻が喘ぎ、懇願する。仕方ないなと脳内の妻の股をまさぐるが、現実の妻は眉ひとつ動かさない。虚しくなって考えるのをやめた。人の気持ちは透けて見えないな、そう思ってニヒルに笑った。

 いつの間にか朝だ。夜間にすることもないので、最近はすっかり早寝早起きだ。寝ぼけ眼で眼鏡をかけ、隣の布団で寝る妻の姿を眺める。どうやら布団も透けるようだった。寝室を静かに出て、髪を整える。朝飯はいつも通りコンビニで買おう。いってきますと小さく呟き、家を出た。今日は寒いな。昨日、寂しいことを考えすぎたからだろうか。もう、すっかり冬だ。お隣の奥さんが裸で犬の散歩をしていた。挨拶をしたら、悲鳴をあげて家の中へ逃げていった。





*憧れの東京村

 どこまでも続く、鮮やかな弁柄色。山と空の境目は翡翠の輝きにも似て、流れる雲間から時折覗く太陽が、藁ぶき屋根をふんわりと照らす。さらさらと流れる水の音、小鳥が遊び、虫が生き生きと跳ね回る。そう、ここが憧れの、東京・・・。
「って、ちがーう!どう見ても田舎でしょこれ!わーおいしそうなクレープ、そして通りを埋め尽くすブティックには、イマドキのイケメン・イケジョが個性を見せる・・・!ってそんなわきゃあるか!どこ見渡しても牛や馬以外の哺乳類が見当たらないんですケド!」
「えー、でも・・・ちゃんと東京駅行きの電車に乗ったはずだよ・・・。」
木造の無人駅を背に、首を傾げる。後ろを振り返ると、確かに"東京駅"と書いてある。しかしそこに広がる景色は、二人の想像していたものとは全く違っていた。畑には青々と育った作物が綺麗に並び、そよ風が土のにおいを運んでくる。
「見てよ、今日の日のために、ファッション雑誌で研究し尽くした全身コーデ。田舎娘にありがちな"頑張ったけどちょっと芋臭い状態"にならないよう、インターネットを用いて最新のオシャレをさんざん学んできたの。地元にイケてるショップなんて無いから、全部ネットショッピングよ。なのに、なのに・・・完全に浮いてるじゃないの!何よもう!キャスケット帽とか、邪魔!麦藁帽子がお似合いだわ!私、いまから森ガールに転向する!」
勢いよく捲くし立てるが、だんだん虚しくなってくる。目の前の友人がうんうんと優しく頷いた。ぶるんぶるんという鼻息と、気の抜けた鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。
「うーん、やっぱり間違えちゃったのかなあ。でもちゃんと東京駅って書いてあるんだけど。」
「どこが東京よ!私の知ってる東京は、高い建物が沢山あって、人が道路の端から端までごった返してて、車がびゅんびゅん、電車がシュゴーって感じなんだけど・・・。見たところ一番高い建物はあの電波塔だか変電所だかわからん鉄塔ひとつじゃないの。あとは空と山しか見えないじゃない。私達の憧れの大都会は、いつの間に第一次産業が盛んになったのよ!」
「わ、わからないよ・・・。まだ駅降りたばっかりだし。ほら、うちらの地元だって、駅前は何も無いじゃん。少し歩いてみれば違うかも・・・。」
「あんたどんだけポジティブなのよ・・・。あーもう、いいわ。どうせ持ってきた交通費だって限られてるし。片田舎をぶらっとハイキング、ってのも悪くない・・・悪くないわ・・・。」
どう贔屓目に見ても無理をしているが、そうでも思わないと精神が保てそうになかった。申し訳無さそうに、ゆっくりと歩き出す友人。私もそれに続いた。
「あーもう、歩きにくいな、これ・・・。」
おろしたての可愛らしいミュールが、早くも泥だらけだ。三十分ほど歩いただろうか、もはや二人とも無言である。ようやくコンクリートの道路があらわれ、ちらほらと商店のようなものが見え始めた。
「お土産屋さん、かな・・・。」
「ねえ、あの旗・・・。"東京村へようこそ"って。村ってなによ、ねえ。」
「やっぱり、ここは東京なんだね。ちょっと思ってたのと違うけど。」
「ちょっとじゃないわよ・・・。」
二人とも歩き慣れない道にくたくたになっていた。何か飲み物でも売っていないかと、店の中へ入る。ガラスの引き戸がきいっと音を立てた。
「いらっしゃい、あんら、めんこい娘っこだよ。どっからいらしたんで。」
店の主人らしき、背中の曲がったお婆さんが声をかけてきた。面くらいながらも、友人が答える。
「え、えっと、西尾下からです。」
「西尾下?隣の県だか?あんらまあ、そんなめかしちょう格好しとんでえ、トウキョウから来たんじゃー思うたんだけんど。あらあら、隣の県もいつの間に、進んどうねえ。」
ケラケラと笑うお婆さん。思わず友人と顔を見合わせる。
「あ、あの、トウキョウって・・・。ここは、どこなんですか?」
「ああっ?表にも駅にも書いちょうね、こごはアズマミヤコ村だでよ。」
当たり前じゃないか、と言わんばかりに言い放つお婆さん。
「あ、あずま・・・。」
「みやこ・・・むら・・・。」
完全に腰が砕けた二人は、その場にへたりこんだ。
「あ、あははは・・・。」
「あははははは・・・。」
「あーっはっはっはっはっはっ!」
「ははははははっ、あはっ、あはっ!はははっ・・・。」
「ど、どげんしたんだか、狐にでも化かされたか、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・。」
驚いて念仏を唱え始めるお婆さん。二人は、声が涸れるまで笑い続けた。





*橋

 長い夢を見ているような気分だった。閉塞感ばかりに締め付けられ、永劫とも思える時を、ただじっと過ごしていた。足元を通り抜ける清流が、爪先からじわじわと染みてくる。いつしか氷付けになった身体に、思考も停止していたようだ。見上げれば、地面の向こうは真っ青な空。いつから眠ってしまったのだろう。そして、どれくらい時が経ったのだろう。何もかも知る術は無いが、ただひとつだけ明らかなこと。君が、僕を目覚めさせたんだ。
 君は、毎朝同じ時間に、決まって端っこを渡っていく。おさげの髪をぷらぷらと揺らしながら、ゆっくりと。今日のパンツは桃色だったね。見られているって知ったら、君はどんな顔をするのかな。その真面目そうな顔を赤らめて、恥ずかしがるのかな。見たいような、見たくないような。二回目の時間はいつもばらばらだ。夕方頃の時もあれば、夜遅くの時もある。ただ、決まって端っこを渡る癖は変わらないね。一度、深夜遅くに通り過ぎていった時は、心配したものさ。あの時の、僕のささやきは聞こえたかい。聞こえるわけないね。
 何ヶ月経ったろう。川べりを桜が埋め尽くした頃、君は自転車に乗り始めたね。新しい制服、似合っていたよ。パンツが見えないのがちょっと残念だけど。桜と同じような、桃色だったらいいなって。君はやっぱり端っこが好きだ。そっち側からは、川の上流が見えるね。川の両脇に植えられた、優しい並木が好きなのかい。あれはね、僕が埋まった頃にはまだ無かったんだよ。いつの間にか運ばれてきたんだ。
 すっかり暑くなったね。最近一緒に橋を渡っていく、隣の男の人は、恋人かな。幸せそうで僕も嬉しいよ。君の笑顔を見たのは、これが初めてだね。恋をすると、人は色んな表情を見せるものだっていうけれど。顔をぐしゃぐしゃにして、今日はどうしたんだい。何か悲しいことがあったのはすぐに見てわかったよ。行きに乗っていった自転車は、どこに置いてきたんだい。ひどいことをされたんだね、その真っ赤に染みがついたパンツ。あの男かい。僕にはどうすることもできないよ。できることなら、一緒に泣いてあげたいよ。もしくは、慰めるくらいのことができたらいいのに。悲しいかな、僕は動けないんだ。橋の端っこで泣き続ける君を、ただ見ていることしかできないんだよ。
 何時間経ったろう、もう遅いから、帰ったらどうだい。こんな遅くに女の子一人じゃ、危ないよ。ほら、向こうから誰か来た。君の方に向かってくる。あれは、あの男じゃないか、君が一緒に歩いていた。君が呼び出したのかい。今すぐにここから飛び出して、あの男の顔に拳のひとつでも叩き込みたいよ。君を泣かしたのは、あの男なんだろう。何をしているんだい、そんなところに立ち上がったら、危ないよ。この橋の下は、そこそこ高さもあるし、流れも速い。もしも君が足を滑らせでもしたら、あっ…。



 大丈夫、すぐに目を覚まさなくたっていいさ。ずっと側にいてあげられるから。高く昇った月の力かな、それとも僕の大きな気持ちが誰かに届いて、奇跡を起こしてくれたのか。なんでもいいよ、そんなことは。君の指、思ったよりも短かったんだね。こんなに濡れてしまって、寒くないかい。君が目を覚ました頃には、一緒に空の上さ。あの男かい、そうだね。僕があそこを離れたことで、今頃は崩れ落ちた橋と一緒に、川の中だろうさ。君は何も心配することはないんだ。だからさ、もう、おやすみ。





*ミッション・キャットライク

 私としたことが、とんだ失態だ。この時間帯の警備兵の数は二人だけだったはずだが、確認できただけで五人はいる。しかも、物騒な得物まで抱えていやがるとは。事前情報に誤りがあったか、もしくはこちらの情報が漏れたのだろうか。庭には獰猛な番犬が二匹。こうなってしまっては、闇に紛れて迂闊に逃げることもできない。かといって、この見通しの良いエントランスにずっと潜んでいられるのも、時間の問題だろう。八方塞がりとはこのことだ。素人はここで自暴自棄に陥り、突拍子も無い行動で身を滅ぼすだろう。そうだ、こんな時こそ冷静さを失ってはいけない。観察し、導き出すんだ。生き残るための最適解を。
 右手の廊下には二人、つい先ほど反対方向へ歩いていった。左からは微かな足音。人数は、一人だろうか。階段上に待機しているのは一人だったが、先ほど何かを呟いていたのが気がかりだ。誰かが合流したか、或いは誰かと連絡をとっているのか。正面玄関は死路だ、選択肢からは省く。いずれにせよ、今のままだと情報が少なすぎる。しばらく様子を見よう。左の廊下から一人、インカムをつけている。通信相手は仲間だろうか、中枢に繋がっていたら厄介である。カメラの死角は調査済みだが、それでも避けられないところはあるだろう。裏口から脱出することを前提にすると、そこまでの廊下でひとつ、そして裏口を見張るカメラもあったはずだ。最低二回は撮られる恐れがある。もちろん、正体がバレるような格好はしていないが、ここの奴らが中枢と連絡をとれる状態であれば、それだけで危険である。裏口を出たところに見張りがいないとも限らない。奴らが私の存在を感知し、待ち伏せされているとしたら、もはや希望は薄い。プロとプロの戦いは、情報の少ない方が負ける、長年の経験から出したセオリーだ。左から来たやつは、そのまま右へ。このままでは右の通路に三人の警備兵が固まることになる。となると、左の通路は手薄だろうか。奴ら、油断しているのか、もしくは私を誘うための罠とも考えられる。右の廊下の奥から話し声。合流したのだろうか、そうなると何人かがエントランスに戻ってくる可能性は高い。とりあえず左の廊下へ行ってみることにしよう。途中に客間があったはずだ。あそこならカメラが無い上に、窓から外の様子も探れる。
 音も無く立ち上がった、つもりだった。私としたことが、飾り物の甲冑に足を引っ掛けてしまうとは。心の底で動揺していたのだろうか、冷静になりきれぬ自らを悔やんだ。金属の擦れる小さな音、奴らが聞き逃すはずもない。
「誰だ!」
階段の上の警備兵が声をあげた。同時に靴を鳴らす音が、だんだん近づいてくる。ここまでだろうか、家族の顔が頭を過ぎる。真面目な会社員である夫が、実は某国のスパイであると知ったら、妻はどんな顔をするだろうか。大学を目指して勉強中の娘、育ち盛りの息子。大切な時期に父親を失えば、その先の人生は簡単に捻じ曲がってしまうだろう。みんなの可愛がっている愛猫にも、しばらく高い餌を買ってやれなくなるな。…猫。そうだ、猫だ。私の家は猫を飼っていた。
「にゃーん。」
思いついてしまえば、あとは躊躇いなどなかった。窮鼠猫を噛むという言葉があるが、追い詰められた犬が猫を真似るなど、滑稽そのものだ。しかしこんな馬鹿げた方法をとらずとも、真っ向から戦ってみれば、万に一つの勝機もあったかもしれないものを。つくづく、やらかしてしまったと思った。しかし、警備兵は以外な反応を見せた。
「なんだ、猫か。」
なんとこれが効果覿面であった。そのまま降りかけた階段を上っていく警備兵。まるでコメディでも見ているようだ。だがこれは好機、先ほど警備兵があげた声により、他の兵が集まってくることも予想できる。早めに左の廊下へ移動しよう。そう、焦ったのがまたいけなかった。勢いよく飛び出した私は、左の廊下から歩いてきた警備兵に、正面衝突してしまった。突然の衝撃にお互いに引っくり返ったが、警備兵はすぐに体勢を立て直し、銃を構えてくる。懐からナイフを取り出すも、武力差は歴然であった。相手の右指がトリガーにかかり、わずかに動いたように思った。
「にゃーん。」
こうなればもうやけくそだった。存在を誤魔化そうなどとは思わない。ただ、相手に隙を作れれば御の字である。それにしても迂闊すぎる手だとは思った。成功が頭にちらついていたからであろうか。もっと選択肢はあったはずだ、考える余裕も無かったというのか。私もヤキがまわったものだ。猫のふりをして撃たれる、そんな不名誉な死に様で、私の人生は幕を閉じる。まったく、笑い話にもならない。せめて、残された時間、神にでも祈ることにしよう。

「・・・なんだ、猫か。」



 真っ青な海、境目の無い空。オフシーズンとはいえ、この開放感。突然の提案に家族達は驚いていたが、やはり来てみると皆楽しそうだ。時期外れの家族旅行には、もちろんこいつも一緒だ。上等な猫缶を開けてやると、すぐに食いついてきやがる。まったく、いつもは無愛想なくせにな。頭を人差し指で撫でてやると、猫なで声でにゃーんと呟く。なるほど、似ていた。





*キンモクセイの魔法

「どうしたの、ニヤニヤして。」
藪から棒の質問にどきりとして、慌てて顔を作り変える。誤魔化すようにそっぽを向くが、その様子が面白かったらしい。
「何かいいことでもあったの。」
意地悪に言い足す母さんを、少し睨んだ。答えを考えてみるが、自分でもどうしてかわからない、というのが正直なところだった。確かに、嬉しい体験をした気がするのだが、どうしても思い出せない。しばらく考えていると、そのうちに母さんは興味を無くしたのか、煮立った鍋の世話を再開した。
「あ、そうだ。トイレの芳香剤、新しいの買ったから、換えといて。」
見ると、テーブルの上にはスーパーのレジ袋。・・・今度のは、無香じゃないんだ。
「そうなのよー。ちょうど売り切れてたの。ま、なんでもいいでしょ。」
ふーん、と興味無さげに呟き、台所を出る。頭の中は、先ほど指摘されたことでいっぱいだった。何かを忘れているような気がしてならない。今日は友人と買い物の約束をしていて、昼から繁華街へ出かけていた。夕方頃に別れ、駅からいつもの道を歩いて帰宅してきた。嬉しいことがあったとすれば、友人との会話だろうか。何を話していたっけ。忘れるくらいだから、実のところは大したことがなかったりするのだろうか。それにしても、気になる。もやもやしながら、トイレのドアを開けた。



 帰り道、神社の前を通った時のことだった。ふわりと漂ってきた懐かしい香りに、足が止まった。辺りを見回すと、石塀の向こうに垂れ下がっている、オレンジ色の花が目に飛び込んできた。キンモクセイか、優しい香りだ。なんだかとても嬉しくなって、携帯のカメラを向けようとポケットを探った時だった。それは突然、目の前に姿を現したのだ。
「久しぶりだね。もう何年になるかな。」
石塀の上にちょこんと座っていたのは、黄色いワンピースを着た女の子。頭の上には花冠を載せている。ぷらぷらと垂らした素足がとてもあざといが、それよりも気になるのは、この女の子のサイズだ。目測だが、どう見ても全長20センチくらいしか無い。美少女フィギュアの類かと目を擦るが、それは確かな眼差しで、こちらを見つめている。唖然としていると、怒ったように頬を膨らして言う。
「・・・むー、またその反応?いっつもそうだよね。」
少し残念そうにため息をつくと、ま、仕方ないか、と加えて呟く。背中に生えたトンボのような羽で器用に舞い上がり、目の前で静止するそれをじっと見ていたら、僅かに記憶の奥底から湧き上がるものがあった。

 幼少の頃だ。小学校にあがる前だった気がする。確か、今は亡きお爺ちゃんと一緒に、どこかの野原を散歩していた時のことだった。お爺ちゃんがベンチに座ってなかなか動かないので、僕は一人でそこらへんを駆け回って遊んでいたんだ。何かの拍子で草むらの向こうへ転がり込むと、目に飛び込んできたのは大きなキンモクセイの木。彼女とは、その時に初めて会ったんだ。話しかけたとたんに驚いたように飛び退くそれを、不思議そうに眺める。すると、木の後ろから顔を少しだけ出して、じっとこちらの様子を伺っていたっけ。彼女は、僕に姿を見られたことに驚いて、そんなことは普通じゃ有り得なくて、とても嬉しかったって言っていた。それから、自由に宙を舞う彼女と、追いかけっこをしたり、かくれんぼをしたり、花を結んだりして遊んだ。彼女は僕のことを初めての友達だと言い、満面の笑顔を見せてくれた。その時、大きな木が風に揺れて、きらきらの光を辺りいっぱいに散らしたんだ。ただただ見とれてしまった僕の耳元で、彼女はくすくすと笑っていた。
 遠くからお爺ちゃんの声が聞こえた時だ。また会えるかな、って聞くと、彼女は寂しげな顔を見せた。このまま別れたら、僕は彼女のことを忘れてしまうんだって、そう教えてくれた。それでも無理した笑顔で手を振る彼女の前で、僕は駄々をこねたんだ。また会いたい、また一緒に遊びたいって。彼女はしばらく困ったような、でも嬉しいような、そんな顔をしていた。そして、ふと笑顔で頷くと、僕に魔法をかけた。

「この香りが、あたしと君を繋いでくれる。思い出してくれたみたいね。」
そうだ、別れた瞬間に、僕は彼女のことを忘れてしまう。それでも、この香りを感じている間だけは、彼女のことを思い出せるんだ。僕は懐かしくなって、胸が縮んだり、膨らんだり、苦しくなった。神社の石段に座り、とりとめのないことを何でも話した。彼女は嬉しそうに頷き、幼い笑顔でくすくす笑った。僕が彼女を忘れている間も、彼女は僕のことを覚えていて、いつでもその辺を漂っているんだって、教えてくれた。彼女の羽が夕焼けで赤く染まる頃になると、急に寂しくなってきて、僕は昔と同じように駄々をこねた。彼女も昔と同じで、困ったような、嬉しいような顔をした。そして、笑顔で頷くと、言ったんだ。
「じゃあ、ちょっとそこに立ってみて。」
石段を降り、少し彼女から離れる。もっと、という声に、一歩、また一歩と下がっていくと、とたんに彼女は僕の前から姿を消した。

 気付いたらぼーっとしていたようだ。こんなところで日が暮れるまで、何を立ち止まっていたんだろう。静かに風が通り抜け、辺りの木がざわざわと鳴った。早く帰らないと、母さんからメールが来るな。僕は家路を急いだ。何か嬉しいことがあったような気がするけど、なんだったっけ。ま、いいか。



 便座の前で不機嫌そうに浮かぶそれを呆然と眺めていると、僕は全てを思い出した。
「ちょっと、人がせっかく、寂しくならないようにって、気を使ってあげたのに・・・。」
蓋のあいた芳香剤は、トイレの中を温かな香りで満たしていた。僕はその日からしばらくの間、トイレに入るたびに驚きの声をあげることになった。
posted by トドロキ at 06:50| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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