2011年11月27日

夜の短編喫茶2

ぱっと見て気づいた誤字だけは直しました。
そんなショートショート第二段。

●お品書き
1.おやつテケツ
2.牛乳名人
3.除夜の鐘
4.人伝橋
5.忘れ貯金





*おやつテケツ

「テケツー、テケツー。テケツはいらんかねー。」
 昼休みの校舎。ざわめきをかきわけて響きわたる声には、聞き覚えがあった。読書の手を止めて廊下に出ると、同じクラスのマモルがゆっくりと歩いてきた。その手には道具箱と、牛乳瓶。何をやっているのかとたずねてみた。
「テケツを売っているんだよ。おやつテケッツ。」
チケットのことだろうか。なるほど、道具箱の中にはいかにも手作り感溢れる、折り紙製のチケットが並んでいる。その横の牛乳瓶に目をやると、百円玉がいくつか入っているようだった。いくら最近の小学校が子供に甘いとはいえ、これは先生に見つかったら危ないのではないだろうか。しかし、そんな心配よりも、その得体のしれないチケットに対する興味の方が大きかった。
「おやつテケツは、今度の遠足のおやつを買う権利さ。」
おやつを買う権利。権利という言葉は聞いたことがある。それを持っていれば、おやつを買うことができるということだ。本来ならば、全ての生徒が同様に、平等に、持っているはずのものだが。
「普通だと、おやつは三百円までって決まってるでしょ。おやつテケツはね、その三百円分の権利を、証券化したものなんだよ。」
証券化。少し難しい単語がでてきた。正直、ちょっと意味がわからないが、それを悟られるのは何か嫌だった。
「例えばこれは、B組のツバサが提供してくれたぶん。こっちは、C組のタカト。誰でもこれは売ることができるし、買うこともできる。僕は集めてるんだよ。こういうのは、出資する人が多くないと成立しないからね。」
色とりどりのチケットには、クーピーで名前と金額が記されている。ツバサ・三百円。タカト・三百円…といった具合である。要するに、これが三百円分の権利そのものらしい。つまり、これを買うと、三百円分おやつを買うことができる。元々みんなが持っている三百円分の権利とあわせて、六百円分。遠足にそれだけの金額分のおやつを持っていける、そういうことらしい。ここまで説明されると、ようやく合点がいった。しかし、腑に落ちないことがある。三百円分の権利を買って、おやつを六百円まで買えるようになったとしても、おやつを買うためにはもう六百円必要である。これではいささか損が大きいのではないだろうか。
「ああ、心配いらないよ。三百円分の権利とはいえ、テケツ自体の値段はそこまで高くない。そうだね、えーと、今は二百円くらいかな?」
ずいぶんあいまいな返事をするな、と突っ込むと、どうやらこれの値段は需要の大きさに深い関わりがあるらしい。と言われても、いまいちピンと来ないのだが。マモルは、欲しい人が多ければ多いほど、テケツひとつあたりの値段が高くなるんだと付け足した。
 僕は少し考えた。三百円分のおやつを買う権利を、二百円で売ることができる。つまり、遠足におやつを持っていくのを我慢するだけで、二百円の儲けだ。これほどウマイ話は無いのではないだろうか。僕は、三百円分の権利を売ることにした。マモルは僕の申し出を予想していたかのようだった。
「そいじゃ、この契約書に、サインお願いね。証券はこっちで作っとくから。」
そして、何やら長ったらしく文字が書かれたプリントと、ボールペンを手渡された。甲は乙に対して、うんたらかんたら。僕は二行くらいで読むのを諦めて、手際よくフルネームでサインをした。
「金額の決定は休み時間単位でやってるからね。五時間目が終わったあとに、代金を渡すよ。」
そう言ってニッコリ笑うと、マモルは教室に入っていった。
 五時間目、理科の授業が終わった後。アルコールランプを片付けながら、僕はマモルに向かって目で合図をした。マモルもそれに気づいたようで、クラスの教室へ移動する廊下で、僕に話しかけてきた。
「代金の請求だよね。計算は終わってるよ。はい、これ。」
そう言って、マモルが手渡してきたのは二枚の小銭。しかし、予定の金額よりもだいぶ安く、たった六十円しかなかった。僕は文句を言った。
「いやね、二百円っていう金額を見て、売り注文が殺到したんだよね。需要が多ければ値段が上がるのは説明したろ。その逆で、供給が多いと値段が下がる。これが市場の仕組みだよ。」
何だかそれらしい理屈をこねているのはわかったが、そんなもの理解することはできないし、気がおさまるわけもない。僕はマモルに掴みかかった。マモルは頭は良いが、喧嘩はめっぽう弱い。少しばかり脅せば、なんとかなると思った。マモルの背後から出てきた、彼を見るまでは…。
「紹介するまでも無いよね。タケシ君は、こういうこともあろうかと、僕が雇ったんだよ。」
タケシ君は、たぶんクラスで一番強い。背は高いし、運動神経も良い。体育でサッカーをする時なんかは、彼がいるチームがだいたい勝つ。そんな彼がマモルの隣にいる。これだけで僕はすでに敗北を喫していた。マモルは本当に頭が良い。彼に適うはずがなかった。その後、売り注文と買い注文の数、そこから割り出した一枚あたりの金額、そしてマモル自身が手にするインセンティヴなどを細かに説明されたが、呆然としていた僕の頭には全く入っていかなかった。僕は、悔しさに唇を震わせながら、教室に戻った。



 マモルの牙城が崩壊したのは、あっという間だった。女子の通報により、強制捜査が入ったのである。マモルは偽造バナナ券の売買が原因で、生活指導の先生に逮捕された。被害者は実に学年の半分に及んだ。彼らは失った財産と権利の返還を求めるも、それは簡単なことではなかった。現在、被害者のための救済制度が検討されているようだが、このような事態は開校以来初めてだそうで、対応は後手後手になりそうだ。
 僕は六十円で、小さなゼリーを買って食べた。そして、欲望にまみれた現代社会を憂いた。





*牛乳名人

 テレビから漏れる大きな笑い声。この手のバラエティ番組は騒がしすぎて、好きではない。若手芸人が"オモシロイ動き"を繰り返すだけの、意味のよくわからない映像が、次々と流れては消える。奇をてらった動きだとは思うが、これで笑える人の気持ちはよくわからない。昔からそうだった。僕は、笑うことができないのだ。
 小学校の休み時間。教室内は、昨日のお笑い番組の内容で盛り上がっていた。どこが面白かっただの、どの芸人がカッコイイだの。もちろん、そんな話に混じることなどできるわけがない。僕は完全に孤立していた。気を遣って話しかけてくれる者はたまにいるが、その度に笑顔のひとつも返せない自分自身に嫌悪感を抱くだけであった。何を言われても、どんなことをされても笑わない僕は、クラスの男子の絶好のからかい対象でもあった。しかし、彼らがいくら変な顔をしても、どんな馬鹿げた発言をしても、僕は笑うことなどできなかった。大抵はそのうちに飽きられてしまい、彼らは決まってつまらなそうな顔で去っていく。それもまた、申し訳なく思えて仕方が無かった。

 ある日の給食の時間である。クラスで一番のひょうきん者が、隣のクラスの牛乳名人に敗れたというニュースが舞い込んできた。ひょうきん者の彼は、自分の席で息も絶え絶えになっている。男子たちは、このままじゃ俺たちのクラスのメンツがたたない、などと騒ぎたて、次に牛乳名人に挑む戦士を選抜し始めた。しかし、名乗りをあげる者もいなければ、推薦された者は怖気づいてしまう始末である。クラス中が落胆で満たされつつあった。まったく、給食も静かに食べられないのかと、少し不機嫌に思っていた時。突然、僕の名前が呼ばれたのである。何をされても、口元はおろか眉ひとつ動かさない。そんな僕が、牛乳名人の相手としては打ってつけだというのだ。そもそも牛乳名人って何だよ、と思ったが、クラスのみんなの視線が集まる中、その推薦が半ば強制的なものであることを肌で感じたのだった。
 勝負の内容は、考えてみればすぐに察することができた。瓶の牛乳を飲んでいる最中に、あの手この手で笑わせて牛乳を噴出させる、あれだろうか。おそらく、噴出した者が負けなのだろう。なるほど、それなら確かに何をされても笑わない僕は、この勝負に打ってつけであった。しかし、それに勝ったところで"牛乳名人"などという不名誉な称号を得るだけなのかと思うと、あまりモチベーションが上がらなかった。それでも、何の文句も言わずに隣の教室へと立ち入ったのは、クラスの皆からの期待が、少し嬉しかったからかもしれない。
 教室内は、飛び散った牛乳で真っ白に染まっていた。黒板も教卓も、もちろん並んだ机はひとつ残らず、果ては教室の後ろのロッカーまでが隅々まで真っ白である。さすがの僕も、たいそう驚き呆れた。一体どうすれば、教室ひとつがこんなに牛乳まみれになるのだろうか。皆が廊下に避難している中、教室の中心に一人佇む男、彼が牛乳名人であろう。その顔からは、自信に満ちた笑みが零れていた。次の挑戦者はお前かと問われたので、そうだ、と答えた。僕は招かれるまま、彼の前に立った。
 手渡された牛乳瓶は、すでに蓋が取られていた。目で合図をされたので、僕は牛乳を飲み始めた。時間にして、20秒くらいだろうか。彼はあの手この手で僕を笑わそうとしたが、僕はただそこに当たり前の風景が広がっているかの如く、何の反応も示さなかった。何事も無く牛乳を飲み干すと、彼は息切れをした様子で、なかなかやるじゃないか・・・と、かすれた声で言った。
 次は彼の番だ。彼は手元の牛乳瓶の蓋を手際よく引き抜くと、一気に飲み始めた。早い、10秒くらいだろうか。彼の目元は、牛乳を飲んでいる間も、挑発するかのように僕に向けられていた。僕は、何もしなかった。牛乳の瓶が空になり、机の上に乱暴に置かれる。口の中にはまだ牛乳が残っているのだろう、しっかりと閉じた口からは、白い雫がたらりと流れ落ちた。僕は、何も言わなかった。時が止まったように、二人ともが微動だにしなかった。彼は僕の出方を伺い、僕は何もしなかった。その空気を切り裂いたのは、刹那の出来事だった。彼の口から、鼻から、目から、耳から、顔中の穴と言う穴から、彼はものすごい勢いで牛乳を噴出した。白く染まる机、椅子、天井、壁、窓。白く染まる彼の顔と服。そして、白く染まる僕の顔と服。たぶんパンツの中までぐしょぐしょだった。彼は小刻みに震えながら、なんで何もしないのかと声を震わせた。彼の服からぽたりと垂れる雫が、床にたまった牛乳の水溜りに波紋をたてた。僕は驚いて、呆気に取られて、気持ち悪くて、そしてなんだか、とてもおかしくなった。
 教室の扉が、恐る恐る開かれた。中の様子を覗いたクラスメイト達は、珍しいものでも見るかのように、目を丸くした。あいつの笑ってる顔、初めて見たぞ。そういって、みんな笑った。僕もなんだか馬鹿馬鹿しくなって、声に出して笑った。





*除夜の鐘

 うっすらとぼやけた世界が、だんだんと鮮明さを取り戻す。事の重大さを理解するのに、時間はかからなかった。腕時計の示す時刻は、23時49分。見間違いかと目を擦るが、確かめれば確かめるほどに、血の気が引いていくのを全身で感じた。大慌てで飛び起き、部屋を出た。木造の廊下で、壁に何度も身体をぶつけながら、ドリフトじみた方向転換を繰り返す。この廊下を歩くのに、足袋は滑りすぎる。縁側から飛び出し、庭用の下駄を鳴らしながら境内を駆ける。この季節、作務衣は少し冷えるが、袈裟に着替えている時間の余裕など無い。もうすぐ、年が明けてしまう。息を切らしながら梵鐘の側までたどり着き、時計を確認すると、時刻は23時51分。残り9分、猶予はそう無い。これから年が明けるまでの間に、この鐘を107回撞かねばならないのだ。
 除夜の鐘、それは日本仏教にて、年末年始に行われる大切な行事のひとつである。旧年のうちに107回の鐘を撞き、年が明けたら最後の1回。合計、108回撞くことになる。由来は数あるが、煩悩の数に因んだものが有名であろう。そして、それを執行するのは、住職である私の仕事である。例年は一時間前から準備をし、40分かけてゆっくりと107回の鐘を撞いていたのだが、今年は言わば緊急事態であった。師走とはよく言ったもので、年末年始にかけての多忙は想像を絶している。法要や葬式のために東奔西走しながらも、寺の掃除、墓地の管理、果ては檀家様の相談事を聞くまで、様々な雑事に追われるのだ。特に、年明けの大祭に向けた卒塔婆の注文が、今年度はかなり多い。空いた時間を見つけ、少しずつ筆を進めていたのだが。疲労が原因だろうか、あろうことかこの大晦日の日に、作業中に居眠りをしてしまうとは。来年はこのような事態に備え、アラームでもセットしなければなるまい。ともかく、後悔先に立たず。目先の仕事をこなさなければ。私がやらねば、誰がやる。
 作法通りの合掌を気持ち程度の短時間で終え、撞木をとる。ひやりとした木の感触を確かめる間も無く、勢い良く梵鐘に叩きつける。境内の隅々を走る振動が、低い唸りを上げて真っ暗な空へと広がっていく。普段は趣の深い音だが、今日ばかりは浸って聴く余裕も無い。続けて2回、3回と、撞木を叩きつける。撞きながら、ざっと計算をしてみた。最後に時計を見たのが年明け9分前、余裕をもって8分前としよう。年内に107回を撞き終えるためには、およそ4秒に1回のペースで撞かねばならない。足元の不安定さに苛立ちを感じ、下駄を放り捨てる。この方が、踏み込みが楽だ。異様なハイペースで発散される鳴動が、腸をえぐるように体中を突き抜けていく。傍から見ればさぞや前衛的な光景であっただろう。学生時代にはメタルと呼ばれる音楽も嗜んではいたが、到底比べ物にはならない。ここまで心身ともに揺さぶる振動もそうは無いだろう。寒さと衝撃、そして疲労により痺れていく腕を無理やり動かしながら、前後運動を繰り返す。その動きは、剣術の稽古にも似ていた。
 こんなことなら小坊主でも雇っておけばよかったと、しみじみ思う。手の痺れは身体に伝わり、足元もおぼつかない。撞木と私の腕、どちらがどちらを振り回しているのか。今のところ、80回、81回…。一瞬だけ時計を見る。57分をまわったところだ。このペースならば、少し休んでもなんとかいけるだろう、そう慢心したのがいけなかった。ペースを緩めれば緩めるほどに身体は痛みを実感し、関節や筋肉が重低音に合わせて悲鳴をあげる。こうなっては、もはやペースを保つこともできず、リズムは崩れ、私は弾き飛ばされた。痙攣する足を叩くが、思うようにバランスが取れない。膝をついたまま、なんとか撞木にしがみつくも、残り5回というところで、いよいよ私の身体は完全に動かなくなってしまった。時刻は59分。窮地に立たされ、悔しさと絶望感が込み上げてきた。
 重く静かな響きの中で、撞木だけがブランコのように揺さぶられている。ゴアトランスめいた響きは、だんだんとアンビエントに変わり、まるで慰めの言葉でも選んでいるかのようであった。振り返ると、古いながらも立派な本堂は、変わらず佇んでいる。先代から受け継いだ、小さな寺。少し不便だが、ここは良いところだ。木々の隙間を忍び込む風も、奥行きを錯覚するほどに深く広がったお堂も、並んだ墓石に落ちる枯葉も、全てが淡く記憶に刻まれている。修行は決して楽では無かった。この地区は仏閣が多く、競争も激しい。坊主が営業なんて…と、こぼしながら苦笑した日もあった。仏具を割り、檀家様に怒られた。さぼっていたところを先代に見つかったこともあったか。悔しさに涙が滲んだ日は、決まってこの梵鐘の前で反省をしたものだ。それはいつでも、大きく堂々としていた。風が吹こうと、雨が降ろうと、決してその場を動かずに、私を見守っていてくれた。梵鐘に見とれていると、先代は決まって肩を叩き、―お前がやらんと、誰がやるんか。―そう、厳しい笑顔で諌めてくれたものだった。そんなことを思い出していると、この寺を菩提寺に選んでくれた檀家様に申し訳ない気持ちで、胸がいっぱいになった。夜の闇はいっそう濃く、こんな日でも、月はいつもより綺麗に見えた。乾いた手に目を落とした、その向こう側。その人は、優しい月光の中に、確かに立っていたのだ。驚きに声も出せない私を見て、呆れたように頷くと、ゆっくりと近づいてくる。旅立った日に、あれほど小さく見えたその身体は、記憶の中で仁王立ちをする姿と、何ら変わりはなかった。見慣れた厳しい笑顔を浮かべると、鐘の響きにも劣らぬ声で言った。―お前がやらんと、誰がやるんか。―
 確かに感じた気配は、呆然としている間に、風と消えてしまった。ゆっくり立ち上がると、揺れる撞木に頭をぶつけた。思い出したように時計を眺める。この場に崩れ落ちてしまってから、10秒ほどしか経っていなかった。時間が戻ったのか、もしくは縮んだのか。いずれにせよ、あれほど長く感じた時が、実際には刹那的な出来事であったことは、好都合であった。心なしか、腕も脚も、少しばかり癒えているように思えた。梵鐘に軽く合掌を向けると、ゆっくりと、音を味わうかの如く。残りの5回を、夜空へ放った。
 新しい年は、足音も無く訪れた。未だ響き続ける余韻に身を浸しながら、先ほどの不可思議な体験を思い出す。あれは仏が起こした奇跡なのか、脳内麻薬が見せた幻覚なのか、それはわからない。しかし、ただひとつだけ確信したことがあった。先代は、今でも私を見守り続けている。遠くから、確かな存在感で、私に道を示してくれる。そう考えると、見張られているようで、なんだか少し気持ちが悪いな…と、笑えてきた。私がやらねば、誰がやる。先代の言葉を胸に抱き、私は最後で、そして最初の1回を、力強く鳴らした。音が止むまでのしばらく、梵鐘をじっと見つめていた。静寂が訪れると同時に思い出した寒さに、私は新年の訪れを感じた。





*人伝橋

 ―誰が言ったか知らないが、確かに聞いた人伝橋。渡る人々足どり重く、暗い夜道に指先霞む。行きはよいよい帰りは怖い。ほらまた一人、いなくなった、消えちゃった。誰が言ったか知らないが、確かに聞いた人伝橋。―

 月影が柳を照らす、街道沿いの道。ゆっくりと歩みを進める男は、背中に老いた母親を負っていた。ふたつめの一里塚を見つけたら、道から外れて山の方へまっすぐ。地元の者のみが知る、特別な道だった。晴れているとはいえ、流石に暗い。足半草履からはみ出した足には、幾度となく硬い石がぶつかった。こんな時間を選んだのは、後ろめたさからであろうか。人には会わずに村を抜けてきたが、それでもどこからか見られているような心地である。晒し首の横を通り過ぎた時なんかは、目玉がこちらを追いかけているような気すらして、しばらくは震えが止まらなかった。背中で揺れる母親は、うわ言のように念仏を繰り返していた。
 男の家が祟られ始めたのは、半年前であった。華寿を迎えたばかりの父親が、亡くなった直後のことである。父親は病気など無く、突然倒れた時は、何かの嘘のようであった。葬式などあげてやる金も無く、身内だけで静かに弔った。畑仕事に精を出していた母親が、その日を境に衰えていくのが、見ていて一番辛かった。四十九日の供養を二人だけで済ませた次の日、男は景気づけにと魚を持ってきた。ここ、甲斐には海が無い。駿河の魚など、祝や宴の席でないとお目にかかれず、決して安い買い物ではない。男は母親に精をつけてもらいたい一心であった。思い出すだけでおぞましい出来事は、その時に起こった。小ぢんまりとした仏壇に線香を立て、魚を供えた瞬間である。その瑞々しい姿は一瞬にして縮み上がり、白く濁った目玉が飛び出した。腐り落ちた魚の身は畳にぼとりと落ち、家中にひどい臭いが立ち込めた。奇怪な現象は、それからも度々起こった。母親は心を病んでしまったようで、日がな一日中雑草の中をうろうろしては、唐人飴売りのようにわけのわからない言葉を呟いた。辛いながらも家族みんなで支え合った日々は一変。男の元に残ったのは、故もわからぬ祟りと、狂った母親。蓄えはいよいよ底をついた。
 谷川にかかる古い吊り橋は、時折流れる風に身を揺らしながら、きしきしと音を立てていた。誰が置いたか、黒ずみ苔むした大岩には、人伝橋としっかり刻まれている。なるほど、幼い頃に聞いた童歌に、歌われていた名前だ。橋を渡った先には、鬱蒼と木の茂る山が広がっている。周囲は谷川に囲まれ、外を繋ぐのはこの頼りない吊り橋が一本だけ。こんな立場になってから、ようやく気付いてしまった。この橋の本当の名は、人捨て橋なのだろうと。肩にもたげた母親の顔を、横目で見る。しわしわだが、綺麗な顔をしていた。小さく寝息を立てているのに気づき、少し安心するとともに、えも言われぬ罪悪感に苛まれた。山道は思ったよりも険しく、一寸先も見えぬ闇がそこにはあった。片腕で探るようにして木々を避け、奥へ奥へと進んで行く。
 どれほど歩いただろう、もはや完全に闇に溶けてしまったような気さえする。方向を失って佇む男は、そこに何かの気配を感じた。ひゅるひゅると音を立て、どこからともなく現れたそれは、右から後ろへ、左から前へ、男をからかうが如く飛び回っているように思えた。さすがに恐れを感じた男が尻餅をつくと、母親があっ、という声を発して、闇に転がっていった。慌てて手探りで追うも、掴むものは土や草ばかり。そのうちに、飛び回る何かは男の背後へと迫っていた。男は背筋を凍らせながら振り返る。しかし、そこには何も無かった。闇も、黒も、山も、草木も、何も無かった。ただ目の前を覆い尽くすのは、空気も温度も無い、虚無。巨大な虚空。男は声を出す間も無く、静かに飲まれて消えた。風が山肌を吹き降ろし、木々が鳴く。老婆は一人立ち上がり、何も見えぬ中をぐるりと見回した。そして、何かに引き寄せられるかのようにゆっくりと歩き出すと、うわ言のように念仏を繰り返しながら、闇に消えていった。





*忘れ貯金

 そういえば、クリーニングに出そうと思っていたんだっけ。クローゼットを開けて、目当てのコートを探している時だった。ふと奥の方に、小さな箱を見つけた。



 物忘れが激しいのは、昔からであった。携帯電話や化粧ポーチ、財布に定期入れ。とにかく必要なものは度々忘れてきたし、傘なんかは同じものを一カ月と持っていたことがない。それだけならまだしも、友人との待ち合わせなども簡単に忘れてしまう。手帳に記録しようが、手帳自体を失くしてしまうので仕方がない。いつしか、私を遊びに誘う友達はいなくなった。
 彼に出会ったのは、一昨年の冬のことだった。喫茶店で隣に座っていた彼は、財布を席に置き去りにしていた。案の定レジで困っていた彼に、財布を届けたのが最初のやりとりであった。彼も、驚くほどに物忘れが激しい。意気投合して付き合うようになってからも、デートの日にちや場所を二人ともが覚えているなんて、奇跡に近かった。そんなわけで、デートスポットは彼の家に落ち着いた。約束もやめて、行きたい時に行くことにした。そのうちに、自然と同棲生活をすることになっていた。物忘れが激しいことを気にしている私を、彼は笑いとばして言った。忘れてしまうのはちょっと悲しいけど、そのぶん思い出す楽しみがあるじゃないか。なるほど、少し自分勝手すぎる理論だなと思ったけれども、そう考えた方が人生楽しいかもしれない。私が長年抱えていた心のもやもやは、少しずつ解けていった。
 夏が近づき、厚手のコートにしばしの別れを告げる時。その日もクローゼットの整理をしていた時に、偶然その箱を見つけたのだ。靴を入れるには小さすぎるし、アクセサリーをこんなところにしまうはずもない。その焦げ茶色の紙箱は、持ち上げてみると案外軽く、勢いで蓋が開いてしまった。中に入っていたのは、三枚の一万円札。彼が後ろから、ああ、見つけたのか、と呟いた。箱を取り上げると、彼は中身を見て満足そうに頷き、そして財布を取り出す。銀行からおろしたばかりの一万円札を中に入れると、そのまま蓋をしめ、元の場所に戻すように言った。不思議そうな顔をする私に、忘れ貯金だよ、と付け足した。そこにお金を入れたことは、しばらくすると忘れてしまうだろう。そうすると、次にそれを見つけた時に、そのお金の存在を思い出して嬉しくなる。ひとしきり満足したら、お金をさらに足し、元の場所に置く。この繰り返しで、お金を貯めていこうというのだ。なるほど、見つける度に思い出す楽しみを得られるというわけだ。彼らしい、かわいい試みだなと思った。私は、それなら、と自分の財布を取り出し、さらに一万円を箱の中に足した。
 物忘れの激しい二人は、次の日には忘れ貯金の存在を忘れていた。箱はクローゼットの中の同じ場所にずっと置かれ続け、私と彼のどちらかが見つけるたびに、その中身を増やしていった。季節は流れ、今年の春。箱を見つけた私は、だいぶ貯まった中身に、いつも通り満足していた。何より、二人の力でここまで貯めたというのが、なんだか無性に嬉しかった。これだけあれば、何か色々な用途に使えそうな気がする。仕事から帰ってきた彼に、忘れ貯金の使い道について相談してみたが、彼も特には考えていないようだった。大きなテレビを買おうか、それとも旅行に行こうか。色々な案が出たが、ついには決まらなかった。それなら、次にこの箱を見つけた方が、使い道を決めよう。彼の提案した賭けに私も賛成し、箱を元の場所に戻した。



 箱の蓋を撫でながら、私は小躍りした。一体何に使おうか、やっぱり旅行かな。国内だったら、充分楽しめそうなくらいの金額はあったはずだ。箱をテーブルの上に置き、両手を合わせて軽くお辞儀をした。そして、風呂場から彼が出てくるのを待ち、勢いよく蓋を開けた。私は、驚きに言葉を失った。中に入っていたのは、婚約指輪だった。目を丸くする私の前で、彼は頭を掻いていた。こんなサプライズを用意していたことを、彼自身も忘れてしまっていたようだった。全く彼らしいと呆れながらも、たどたどしいプロポーズを、私は受け入れた。結局、賭けは私の負けだった。
 忘れ貯金は、結婚した後も続けよう。そう彼は言ったが、私は断った。だって、あの日、箱を開けた時の驚きは、絶対忘れることができないだろうから。
posted by トドロキ at 16:25| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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